3.農薬使用の慣行技術
3-1 慣行技術の背景:ソフトとハードのインフラ
Sankhuの農家には、Sankhu産のバレイショの評価は高く、他産地に比較すると1kgあたり1ルピーのプレミアムがつくという自負がある。また、夏バレイショは疫病による減収のリスクが大きいので農薬散布回数を減らすのはむずかしいが、冬バレイショでは農薬を減らすことはできるとの減農薬への意欲がある。なによりも、農民が健康であることが、安全なブランドをつくるとの意識も高い。しかしながら農業用の害虫誘因灯の普及にたずさわるフリーランサーのネパール農業技術者は、周辺農村に比べてSankhuの農民はかなり頑固である、これまでの慣行法を変えたがらないと評した。しかしながら、農民の選択には制約された合理性がある。農薬使用の適正化のためには、現在の技術を見直す際に前提条件としての彼らをとりまく社会経済的な環境と、農民のリスク回避行動を理解しなければならない。
技術指導では、土壌の栄養管理、圃場の水管理、種イモの選別などの基本技術を重視した。「我流」の合理性や改善すべき点を洗い出すためには不可欠の作業である。土壌分析による土壌栄養の診断は投入産出の関係を知るうえで基本的な情報である。主要な地点で土壌分析を実施し、技術指導のための基礎情報とした。カトマンズにおける土壌栄養分析の費用は基本的な項目だけで土壌サンプル1点あたり約100ドルで、農民にはまったく手が届かない水準にある。このため、EC計、pH計、土壌水分計などによる簡易法で土壌診断し、計測器使用の手引き(付録2)をネパール語で作成し、基礎情報を得る環境を整えた。これによって、個々の農民が置かれた条件の違いを理解したうえで、グル―プ内での「疫病」に対する農薬の適正な利用技術の普及と地域ぐるみの対策が可能になる。
同様に、疫病対策については、農民グループの共同作業として、全圃場の疫病発生状況を調査した。病変葉を採取した後に、農民自らが病斑葉の菌糸を観察し、顕微鏡観察によって胞子嚢中の遊走子を確認し、疫病の基本的な理解を深めた。また降雨量、気温などの気象情報の記録活動を通じて、菌増殖の好適気象条件と初発との関係について理解を深めた。
バレイショ生育の初期段階で、株単位のていねいな疫病観察を実施している農家は少なくないが、農薬の適正使用のための基礎知識が不足しているために、初回散布や圃場全体に散布すべきタイミングなどの改善余地は大きい。山間部の急傾斜農地を均平化し、沢水をパイプで導水し、夏バレイショを栽培している野菜・果樹生産農家の事例はその典型である。彼は水田での夏バレイショ疫病防除のタイミングをまねて農薬散布し、培土前に 2 回、 培土後は4 日ごとに散布していた。草の根技術研修で圃場の立地条件、土壌水分、気象環境の違いで疫病発生の好適条件が大きく異なることを知って、2016年の夏バレイショ作では散布回数を3回に半減させ、減農薬への確信を得た。サクーではバレイショの本格的な生産が水田を利用して始まったため、その農薬散布法が傾斜農地でも模倣され、必要以上に多くの回数、農薬を散布していたのである。近年、サクー周辺の傾斜農地でバレイショを生産する農家が増加しており、こうした経験が広く波及することが期待される。
農民をとりまく、公的な試験研究・普及機関の積極的な関与も重要である。ネパールの国立農業試験研究機関 (National Agriculture Research Council, NARC ) バレイショ研究部にはバレイショ病理研究者が配置されていたが、NARCの機関誌、Nepal Agricaltural Research Journal のvol. 1 (1997) – vol. 9 (2009) を検索したところ、疫病に関する試験結果は1件のみであった。研究者と直接にコンタクトをとって関連情報を得ることが、適切な疫病対策を確立するにあたって必須であるが、現在、NARCにはバレイショ疫病専門家が配置されておらず、疫病対策のプログラムがない。とくに病害虫予察圃場の設置などの活動実績がない。このため、トリブファン大学、NARCを退職した作物疫病研究者2名に、技術普及の助言者として協力をえた。またNARCに疫病に関する研究情報の提供、Sankhuにおける良質な種イモ供給の協力を要請した。
Sankhuにおける農業改良普及事業はカトマンズ区の農業開発事務所(District Agricultural Development Office, DADO)の管轄であるが、その現状は予算およびマンパワーが不足し、改良種子の供給以外は、活動が低迷している。Sankhuに近いインドラヤーニには農業事務所があり、日本の農業改良普及員に相当するJunior Agricultural Technician (JTA)が3名配置されている。専門は水稲、野菜、畜産に分かれ、バレイショを担当するJTAの作物病害対策の技術知識は不十分で、農民が種苗以外の情報をJTAから得ることはほとんどない。このため、技術指導のためのワークショップの開催時にはDADO職員の参加を促し、リーダー農家との交流を促進した。
Fig.7の農地地帯区分でも明らかなように、サクーの灌漑用水利用の改善は大きな課題である。サリナディ川から取水する古くからの灌漑システムは、農業用水のみならず集落の生活用水を供給する重要なインフラである。用水路幹線の要所は煉瓦で構築されているが、おおかたは土水路である。過去30年ほどの管理状況を振り返ると、1985年の政府による改修時には取水堰の水門を管理する水番がいたが、水利組合はなく、配水規定もなかった。その10年後にはゾーンⅣの末流で小麦の初期成長に必要な灌漑ができない状況にあった。
冬バレイショの作付面積が増加すると乾季の水不足はますます深刻になり、上下流の水配分をめぐっては、3月の渇水期に下流部の農民がグループを形成し、上流部の水使用に圧力をかけつつ、夜間灌漑で用水を確保することがあった。また雨季に決壊した灌漑溝の修復を、ゾーンⅡ下流部の農民リーダーがイニシアティブをとり、資材費を調達し、灌漑用水を必要とする下流部の農民の共同作業で幹線水路を修復した。近藤巧(2004)はサクーにおける農民の灌漑システムの維持管理行動を詳細に調査し、灌漑システムの維持管理投資に対して農民はフリーライダーにならざるをえない状況を分析している。
農家が実施する日常の灌漑溝の維持管理は、1)自己所有地に隣接する灌漑溝の泥上げなどと、2)上流部の灌漑溝の欠陥があれば、灌漑用水を確保するために自らの負担で修復するという最小限のルールにもとづいている(長南(1997)参照)。農家は、基本的に耕作圃場に接する部分の水路の維持管理を行い、豪雨で水路に障害物が滞留するような場合、あるいは流量の調整が必要な時は、上流部へさかのぼり、自らの判断で経営農地への配水を確保する。
近年、小型揚水ポンプが使用されるようになり、ゾーンⅤ、Ⅲではサリナディ川から直接取水、あるいは地下水利用によって補水するなど、個別的な対処が可能になった。しかしながら、灌漑溝を利用した用水管理は棚田のかけ流しに近い状態である(山本2016)。このため、隣接する圃場で生育ステージに大きな違いが生じる。草丈20cm以上に成長している圃場の隣の圃場では萌芽したばかりの圃場があるのが普通で、疫病対策に有効な殺菌剤の地区「一斉防除」作業は難しい。各圃場の生育段階に応じた個別的な防除作業にならざるをえない。2017年10月から上流部の幹線水路の改修工事が実施されたが、冬バレイショの培土後の灌漑ができなかった圃場では、バレイショ蛾などによる食害が深刻化し、20%ほどの減収被害があった。こうした事例は、水利組合などの調整機能、水利に関する制度についての検討が必要な状況を示している。
潅漑システムとして改善が個々の農業経営のみならず、地域用水としての機能改善に必要なことは言うまでもない。この際、幹線用水路が分岐する地点までの送水について十分な水量を確保するとの暗黙の合意こそが重要である。