1.Sankhuの農業
1.1 対象地の概要 (改訂作業中)
ムラの歴史
Sankhu 注1)は、ネパールの首都カトマンズから東へ17km、サリナディ川の扇状地に位置し、ネワールの伝統と文化が息づくムラである。「千戸のムラ」、「Kuro(水路)のあるムラ」とも表現され、中世の集落のたたずまい注2)を残し、かってはチベットのラサへの街道筋の町として栄えた。
Sankhuの地名はサンスクリット語の Sakwo (サクォ・ヤギの生息する山の下:チベットの下)に由来する 注3)。一方、集落の形が右巻き貝、サンスクリット語で Sa’m.kha に似ていることからShankharapur (サンカラプール)ともいわれた。
ムラの歴史は3,000年以上さかのぼるといわれているが、考古学的な証拠は残されていない。Sankhuのもっとも古い記録は石碑に刻まれた、538年の土地の寄進に関する2行で、サンスクリット語で書かれたものである。カトマンズ盆地は5世紀から8世紀半ばまでリッチャヴィ王朝(185-879)によって統治され、この時代はサンスクリット語を使用し、中国、チベット、インドと活発に交流し、スワンヤブナート、ボダナート、パタンの仏舎利塔など、多くの寺院が建設された。9世紀末になって王朝が衰退すると、Sankhuに残る碑文はネワール語に替わった。これらのことから、Sankhuの創基は7世紀ごろと推測されるのである(Sharma(1996), p.276))。
図 サクーの位置
集落は、寺、広場、用水路、水場などが整然と配置されており、中世になって、タントリズムにもとづいて設計されたと伝えられている。Sankhuの集落につながる参道を登ると、小高い丘に Bajrayogini (バジュラヨギニ)寺がある。この寺は7,8世紀、インド、チベット密教のネパールにおける拠点であり(English(2002)参照)、集落にある多くの寺はその複合体とみなされる。毎年4月には村最大の祭りが開かれる。一方、Salinadi 河畔にあるヒンズーのSalinadi 寺は Maha Dev 神を祀り、12月の大祭にはネパール全土から女性が修行と祈りのために集う。密教とヒンズー教が混然として、小さなムラを魅力ある存在にしている。
地方行政システムとムラ
ネパールは多民族・多言語文化で構成されている。1950年以降、王政と中央集権的なパンチャヤート制度のもとで経済開発と所得の地域間格差は大きいままで、地方自治はほとんど進展しなかった。1990年の民主化運動によって多党制が認められ、新たな地方行政システムの末端組織として村落開発委員会VDC( Village Development Committee)が設置された。
Sankhuの場合、1994年にネパール政府が作成した 1:25,000 の地図(Department of Survey、Nepal)には、Sankhu Bajrayogini、Sankhu Puklach、 Sankhu Suntol と、3つのVDC名に Sankhu が冠されているが 注4)、それまでのパンチャヤート制度の行政境界をそのまま引き継いだものである。すなわち、集落の中心部でBajrayogini, Puklachi, Suntol の境界が引かれ、それぞれのVDC はカトマンズ District の下部組織となっていた。3つのVDCが一つの村のまとまりある意思決定の場として機能することはなく、VDCの役割はきわめて限られたものであった。Sankhuの住民は出生届、土地登記をカトマンズ区にある事務所に行かなければならなかった。2000年ころから、少しずつ集落内の主要な道路がレンガ敷きへ改良されたが、住民はそれがどのように決定され、どこから資金が出たか、ほとんど関心を示すことがなかった。VDCに一律に50万ルピーの予算が配分された年があったが、VDCの事務所には看板がかかげられているだけで、常駐の職員も、行政事務書類も見当たらなかった。VDCは選挙区の単位としてのみ機能したといえば、言い過ぎであろうか 注5)。
1999 年に制定された地方自治法(Local Self Governance Act)は、地方自治体による地域レベルの活動計画/実施に関する権限強化といった地方分権化の原則を明確にして、現行の地方行政システムに関する包括的な法的枠組みを与えた。政府は地方自治法にもとづいて、VDCを統合し市制の推進を図った 注5)。しかしながら、マオイストがカトマンズから遠隔の地域で起こした軍事行動は次第に全土へ拡がり、首都カトマンズにおいて、その政治的な圧力は無視できないほどの存在になった。政権交代が繰り返されるなかで、2008年に王政が廃止され、国名はネパール連邦民主共和国となり、2015年9月、新しい憲法が公布された。
注5)NGOはSankhuのさまざまな領域でSankhuとその周辺を包括する町内会的な役割を果たしたといえよう。その一例は、Sankhu Lions Club である。彼らは社会奉仕活動を実施し、カトマンズ区内の情報を得るパイプ役を果たし、さまざまなNPO活動の情報交換の媒介者として、住民の意思疎通に欠かせない存在であった。
注5)所管はMinistry of Federal Affairs and Local Development 地方開発省である。2008 年から 2012 年(4 年間)にわたり国連開発計画の支援を受け、「地方ガバナンス及びコミュニティ開発プログラム」LGCDP(Local Governance and Community Development Program: )が実施された。LGCDP は住民のニーズを反映した説明責任のある地方行政の創出とコミュニティに基盤を置いた住民参加型開発による貧困削減をその目的として掲げていた。
サンカラプール市の誕生
新しい行政境界を確定し、2017年12月、Bajrayogini, Puklachi, Suntol, Indrayani, Lapsiphedi, Naglebhare の6つのVDCを統合し、人口25,338人、面積60.2平方キロメーターの Shankharpur Manicipality (サンカラプール)市が生まれた 注7)。行政境界は、人口規模を大きくするために、カトマンズ寄りのTaliまでを含め、より広域でVDCを統合しようとする案が浮上したが、2016年2月、Sankhu住民はゼネストによって反対の意向を表明し、新聞、全国ラジオ網で放送された。機械的に境界を拡大することへの反対は、これまで長い間、地域住民の意思が行政に反映されてこなかったことへの住民の意思表示でもあった。
市庁舎はSankhuに置かれ、市長が公選され、市職員の配置が始まったばかりである。パンチャヤート制度によって地方行政の意思決定機構が長期にわたって醸成されなかったにもかかわらず、今度は、地方分権化を推進するために、より広域的な市制へと移行している。政府は中央省庁の職員を出向させるなど、市の行政組織を強化しようとしているが、区から市への業務委譲、市の財政基盤の確立など、住民の要望にこたえるまでには時間が必要とされよう。現市長は、農業と観光を軸にした地域づくりを政策の目標にかかげ、市民で構成される各種委員会を設け、具体的な施策につなげようとしている。
本報告書でSankhu“ムラ”は、基本的に3つの旧VDCからなる境界をもつ。新たな地方自治の制度が始まった移行期にあっても、儀礼・宗教・文化に着目すれば、Sankhuという歴史のあるムラの存在は変わらず、Sankhuを中心に多くの民族が相互依存の社会経済を維持していることに変わりはない。
注)明治新政府が地方行政制度の改革として、市町村制度を施行し、自然村を行政村へ転換させようとした際は中央集権的な転換であったが、ネワールの集落は蜜居制である。集落は古くから8つのTol(トール)にわかれていた。基本的にはこれをもとにquarter,あるいは ward に区分されたのである(Tvah (トール)?Shrestha2012)。1991年の3つのVDCの人口は合計11,043人で、2011年のセンサス人口もほぼ同じである。
注) この節はスリエ、Sankhuの人々からのヒアリングと以下の論文(英語)を参考とした。
注1) Shrestha, 2012, Sankhuの略史はSharma(1996)参照。
Fig. Sankhu集落内の区割りDivision of Quartersと旧VDCの境界線(tvah)
Schrestha(2012), Map4, p.67
Sankhuの農業
Sankhuの農業従属人口
ネパールの人口センサスは1971年に実施されたが、中断し、1991年になって国連の支援を得て実施された。公表された項目は限られており、その利用は限定的にならざるを得ない。1995~1997年度の開発経済学研究室による学術研究調査時にSankhu村で得た1991年センサス調査のWard単位の中間集計票をもとにした人口が表●に示されている。VDCレベルの公式数値とわずかながら一致しないが、Ward単位に人口変化を知ることができる村の貴重な記録である。また、その際に得た職業別従属人口と推測されるのが付表●である。通常の産業分類とは異なるが、参考資料となろう。2011年センサスからWard単位の人口統計が公表されており、この2時点の比較も参考になろう。
1991年の人口は。2011年の人口は11,043人であるから、この期間の人口変化は小さい。人口の自然成長率が社会的移動、転出率と拮抗していた時期であり、都市部での就業機会の増加、あるいはサクー村での農業兼業化が進んだ期間である。付表によれば、1991年センサスのワード単位の就業状況をみると、総人口の農業従属人口割合が74.8%、男性の農業の従属人口が68.2%であるから、日本の純農村に近い状況が維持されていたことになる。
近年、非農業人口が増加している。その最大の理由は教育費の増大である。
資料)1991年Census実施時の調査結果と推測される。
Sankhuの土地利用
Kuro(水路)のあるムラといわれるように、カトマンズ近郊農村においてSankhuの灌漑水路は立派である。図1に主要な用水路を示したが、サリナディ川にある堰堤から取水し、小河川にかかる水路橋を経て、およそ●mで分岐する。主要な灌漑水路は右岸を潅漑、サリナディ川にいたる。他は集落内をふた筋に分岐し、生活用水を供給した。用水路はその要所がレンガ造りで、現在はコンクリートでライニングされているが、基本的には土水路である。集落内の水路は大きな自然石で組まれており、見事である。長い歴史をもつ水路のほかに、季節的に利用可能な小川が耕作して、基幹水路はあるが、伏流水もまた重要で、掛け流し、上流優位の棚田的な水利用といったほうがわかりやすいかもしれない。上流部には、同じサリナディ川から取水する灌漑農地があることも注意しなければならない。本来、一体としてみるべきであろうが、ここはSalmuturとともにチェットリの人々が大勢を占める。
カトマンズ小規模灌漑設計調査(JICA、1995)では受益面積176haとなっているが、伏流水を利用して灌漑する縁辺の農地や、近年になってサリナディ川から小型ポンプで揚水灌漑する農地などをあわせると、現在のSankhuの灌漑農地面積は200haを超えるであろう。
農業振興政策についてみると、カトマンズ区の農業開発事務所 DADO(District Agricultural Development Office)がカトマンズ市内にあり、その支所がSankhu隣の Indrayani VDCにおかれていた。支所には3人のJTA農業技術普及員助手が配置されていたが、野菜種苗の入手以外、農民が彼らのサービスを利用することはなかった。灌漑システムの維持管理も同様で、DOI(灌漑省)から支出される灌漑溝の維持管理予算はなく、灌漑組合のリストもない。SankhuのSalinadi灌漑溝は、下流部の農民リーダーが必要に応じて有志を集め、最小限の維持管理活動をおこなっていた 注5)。
水利用については、近藤他( )参照。
図1 Sankhuのサリナディ灌漑システム
注) 灌漑溝は2016年の調査による(1995年JICA作成1:5000実測図に書き込み)